「コンビニ人間」で第155回芥川賞を受賞した村田沙耶香氏が師事した宮原昭夫氏は、こんな本を出版しています。

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大塚氏と同じように、小説をある程度ロジックとしてとらえ、「書く」のではなく「作る」という考え方です。

その中で、宮原氏は

 

小説の中で、例えば「美しい花」と書いたとします。これは説明です。その花に対しては、美しい、という見方しかしてはいけないということです。それに対して「紫色の小さな花」と書けば、これは描写ですね。これならば、ある人にとっては美しい花かもしれないが、別の人には地味な目立たない花かもしれない。人によっては気に障る嫌な花である場合もあるでしょう。それは、それぞれの読者の感受性や個性やその時の気分によって違ってきます。

(中略)

これが「説明」というものの弱みと「描写」というものの強みの違いなんですね。

 

と話しています。

「おいしい料理」「美しい景色」と書いてしまっていた後輩ライターたち、ひいては過去の自分を思い出しました。それはあくまで「自分の考え」であり、「自分の意見」であり、いわば「おいしい(美しい)と思った自分」を文章の中に潜ませているのです。小説を書く際にもまさか「私を消す」という課題にぶつかるとは……。

 

さらに、

 

「筆者」と「私」とを意識の上で切り離して捉えることが出来ていれば、それは「小説」である、というのが、私の意見です。

 

という言葉にドキッとしました。

 

これまでいくつかのストーリーを書いたことがありますが、どれもどこかに自分を投影していたのです。特に台詞を考える際は「自分だったらこう言う」「自分だったらこう言われたい」と思いながら書いていました。宮原氏いわく、筆者である自分がどう感じどう思ったかが描かれているものは「手記」なのだ、と(ガーン)。

 

ところで映画監督の故・黒澤明監督は「ぼくは映画を撮るとき、サイレント映画だったらどう撮るか、と考え、それを出発点にしている」と語っていたそうです。会話がなくてもすべてが観客にはわかるが、それに会話が加わることで効果が高まる、ということでしょう。

 

私の場合(あくまで私の場合)、大抵は「ここに会話が入れば話がうまく進んでいくだろう」と思って書いてきましたが、それすらも傲慢な考えだったのかもしれません。

 

まずは会話をなしに話が展開できないかを考える。

そして最後の「味付け」として、会話を添えていく。

 

小説を書く際の「私を消す」練習法としてはなかなか良さそうです。