ちょっとこれは想像を超える質問だったな。知りたかったら、遺伝学の研究者に尋ねるしかないんじゃない?
っつーわけで、じゃ、これで!
というのは許されないでしょうから、しばらくお付き合いしましょう。
「あんた、山に登るときは、あれに泊まるとね。ほら、あれ、ガンバロー」
こんなことを言う母ですよ。皆無と言っていいほどの論理性のなさが、なんというか、魅力ではありましたがね。
「え! スズムシは口で鳴いてるんじゃないの?」
にも、驚いたね。本当にこの人が自分の母なんだろうか、と疑いました。
父は比較的、論理で話すタイプだとは思います。考えることが好きで、肉体労働者でしたが、時間を見つけては本を読んでいました。
ただ、ぼくの筆力が彼からの遺伝によるものだ、と言われてもピンとこないし、正直、ぼくはどちらでもいい。冷たいようだけど、遺伝であろうがなかろうが関係ないし、ぼくの父親が鴎外や吉本隆明ではなく、良一だったことを嘆いてみても仕方がないしね。
物書きとして有利な遺伝子を持っていようがいまいが、ぼくはライターとして生きていくし、死ぬまで文章を書いているのだろう、と思っています。
読み聞かせと本屋入り浸りで「読む人」に
そんなぼくでも両親に感謝していることはいくつかあります。ぼくは4兄弟の4番目なんだけど、生まれてから数年は、両親の仕事が最も忙しい時期だったので、保育園に通うことになりました。
面倒は祖母が中心となって見てくれていたので、母は贖罪のような気持ちで(本人談)、「寝るときくらいは」と読み聞かせてをしてくれました。物語を聞きながら眠るのは、とても幸せなことだったし、このときに本のおもしろさに目覚めたんじゃないか、と思う。
実際、長読み聞かせをしてもらったのは長兄とぼくで、間の二人に対しては、母は本を読んであげてないんだけど、読書量が多いのは長兄とぼく。因果関係はあるんじゃないかな、と個人的には考えています。
あと、父が読書家だったせいで、家にはとんでもない量の本があったこと。それを読んでいる父の姿を幼い頃からずっと見ていたこと。
海や山、遊園地での週末なんてことはなかったけど、毎週のように本屋に連れて行ってもらい、本だけは一冊、好きなものを選んで良かったこと。それらがぼくを「読む人」にしたのは確かなことだと思います。
文章術のほとんどは形式知化できる
これは「読むチカラ」で詳しく語りますが、「読む」ことと「書く」ことは、ほとんど同じ作業だとぼくは思っています。読むことが書くことの訓練になるという意味では、ぼくは小さい頃から書くための訓練をしていたことになります。
その環境は主に両親が与えてくれたものなので、遺伝ではないけれど、ぼくが物書きとして暮らしていることと、彼らのもとに生まれた運命は関係しているのでしょう。でも、まあ、それだけのこと、と言ってしまえば、それだけのこと。
文章を書く力のほとんどは、大学を卒業して出版社に入社してから身につけたものです。それは「才能を磨こう」とかいう、漠然としたものではなく、「行うという動詞は使うな」「書き出しにすべてを賭けろ」とかいう実践的なものがほとんどでした。これなら、誰でも真似できるわけです。
ぼくがこうしてせっせと文章に関する原稿を書いているのも、一人でも多くの人に文章術を身につけてほしいから。必ず身につくと信じているからです。そこからコミュニケーションをどんどん改善してほしいのです。
というわけで、宣伝という意味でも言っておくと、後天的に書くチカラを身につけるためには、まずはこの「on line」を熟読し、実践することじゃないでしょうか