「2週間で小説を書く!」の実践練習第5回目です。
第5弾「人称を変える」
まず一人称の「私」を用いて普通に文章を書いてみる。書く内容としては、読んだ本の感想のような文章は避ける。生活の習慣や仕事の経験のような、自分が関わった出来事や行動を中心とした文章(私は……した)のほうがいい。もっと効果が高いのは、自分の悩みや不安や歓びを語った文章(私は……と思う)だ。すでに書かれた文章があるなら、それを材料に用いてもいい。書き終えたあとで、その人称だけを、三人称の「彼(女)」に変えてみる。「太郎は」のように名前で呼ぶなら、実際の名前とは違う架空の名前に変えてみる。
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私はよく食べる。
目の前に料理が並べられると「お皿を空にするまで席を立ってはいけない」というルールを即座に自分に課してしまう。そんな自分が恐ろしくなって、あるとき「なんでこんなに食べるのが好きなのだろうか」と考えてみたことがある。
幼い頃、私は周りから「おいしそうに食べるよね」「見ていて気持ちがいい」とよく言われていた。それがものすごくうれしかった。そしていつからか「食べていたら褒められる」と思うようになった。
その考えは今も変わらず「これも食べて」「あれも食べて」と言われると「よっしゃ!」と、なぜだかみるみるヤル気がわいてきてしまうのだ。
もしかしたら、エンターテイナーとしての素質があるのかもしれないぞ、とポジティブに考えることで日々更新される体重計の数字は見ないことにしている。
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「私」の部分を「彼女」に変えてみます。ワードだと置換できるのでスムーズです。
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彼女はよく食べる。
目の前に料理が並べられると「お皿を空にするまで席を立ってはいけない」というルールを即座に自分に課してしまう。彼女は、そんな自分が恐ろしくなって、あるとき「なんでこんなに食べるのが好きなのだろうか」と考えてみたことがある。
幼い頃、彼女は周りから「おいしそうに食べるよね」「見ていて気持ちがいい」とよく言われていた。周りが、彼女の食べている姿を見て笑顔になるのがうれしかった。そしていつからか「彼女の褒めポイントはよく食べることにあるのかもしれない」と思うようになった。
その考えは今も変わらず「これも食べて」「あれも食べて」と言われると「よっしゃ!」と、なぜだかみるみるヤル気がわいてきてしまうのだ。
もしかしたら、彼女にはエンターテイナーとしての素質があるのかもしれないぞ、とポジティブに考えることで日々更新される体重計の数字は見ないことにしている。
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▼本書より
変型した後の文章を読み直すと、ただたんに人称が変わっただけではなく、微妙な内容のそぐわなさが生じていることがある。たとえば自分の不満や不安を切々と書いている文章だったのに、他人のような三人称の文章になると、いじいじと自分勝手なことを書いている文章に見えてきて気恥ずかしくなったりする。つまり一人称だから許される自己中心的な傾向が、もろに第三者の視線に曝されることになるのだ。
う~ん、確かに自分アピールが強いですね。
▼本書より
次に、それを三人称に合うように補足したりして書き改める。その際に、彼(女)が自分だということをなるべく忘れて、客観的に突き放して書く。するとけっこう冷静に観察しているような表現や、茶化すような言い方が出てきたりする。
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彼女はよく食べる。
目の前に料理が並べられると「お皿を空にするまで席を立ってはいけない」というルールを即座に自分に課してしまうのだ。そんな自分が恐ろしくなって、あるとき「なんでこんなに食べるのが好きなのだろうか」と考えた。
記憶は彼女の幼かった頃にさかのぼる。周りの人々は、彼女が食べる姿を見て「おいしそうに食べるよね」「見ていて気持ちがいい」と口々に言う。彼女の食べている姿を見て周りが笑顔になる様子を、彼女自身、とてもうれしく感じていた。そしていつからか「自分の褒めポイントはよく食べることにあるのかもしれない」と思うようになった。
その考えは今も変わらず「これも食べて」「あれも食べて」と言われると「よっしゃ!」と、なぜだかみるみるヤル気がわいてきてしまうのだ。
「もしかしたら自分にはエンターテイナーとしての素質があるのかもしれないぞ」とポジティブに考えることで、日々更新される体重計の数字は見ないことにしている。
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このように仕上げてみると、あたかも自分をモデルにした小説のような文章が出来上がりました。すごい! 最後に、変えた人称を「私」に戻して読み返してみます。
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私はよく食べる。
目の前に料理が並べられると「お皿を空にするまで席を立ってはいけない」というルールを即座に自分に課してしまうのだ。そんな自分が恐ろしくなって、あるとき「なんでこんなに食べるのが好きなのだろうか」と考えてみた。
記憶は私の幼かった頃にさかのぼる。周りの人々は、私が食べる姿を見て「おいしそうに食べるよね」「見ていて気持ちがいい」と口々に言う。私の食べている姿を見て周りが笑顔になる様子を、私自身、とてもうれしく感じていた。そしていつからか「自分の褒めポイントはよく食べることにあるのかもしれない」と思うようになった。
その考えは今も変わらず「これも食べて」「あれも食べて」と言われると「よっしゃ!」と、なぜだかみるみるヤル気がわいてきてしまうのだ。
「もしかしたら自分にはエンターテイナーとしての素質があるのかもしれないぞ」とポジティブに考えることで、日々更新される体重計の数字は見ないことにしている。
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▼本書より
一人称で書かれていても、冷静で客観的な文章になっているはずである。この経験をしてみると、「私」というタコ壺のような自意識に籠っている状態を抜け出すことができるようになる。これが小説家としての、重要な出発点である。
清水さんは本書のなかで「小説というものはふだん書くのと同じ文章で書かれているのだが、架空の「目」から書くという、ふだんの言葉の使い方とはまったく異なる奇妙な語り方をしている。その「目」の設定をとりあえず決めないことには、一行も書き出せないものなのだ」とおっしゃっています。
小説の文体は、ざっくり2つにわけると「一人称」か「三人称」です。
「私は」で書くのか「彼は」で書くのか。
しかし、「彼は」で書く場合も何もかもを知っている立場で語るのと、読者と同じ情報しか持ち合わせていないかのように振る舞う立場で語るのとでは、書きぶりが大きく変わります。
どんな語り方を選択するにしても、大事なことは語り方に「一貫性」があることなのでしょう。
いかに自分の文章を第三者の目を通してみてみることが大事かに気づかされます。
さて、次のお題は「一瞬を書く」です。