ライター5年目。ふむ、まだこの問題で悩んでおられるのですね。あ、いや、それが悪いと言っているわけではなくて、掘り下げれば深い問題です。では、基本の基本から考えていきましょう。
みんな「口語体」で書いている
まず、「文体」というカテゴリで見れば、ぼくたちは普段、「口語体」を使って文章を書いています。「そんなもの使ってないよ」とおっしゃるかもしれない。でもね、知らず知らずのうちに使っているのです。
口語体とは話し言葉を基本として、それに近い形で書かれた文章のことを指します。
なーんだ、当たり前じゃん、とは言わないでほしい。だって、明治中期に言文一致運動(坪内逍遥とか二葉亭四迷とか、試験のために暗記しませんでした?)が起こる前、文章は「文語体」と呼ばれる書き言葉で書かれることが一般的で、話し言葉とは大きな乖離があったのです。
もちろん、今でも話し言葉と書き言葉は違いますよね。人が喋ったものを録音しておいて、それを文字化する「文字起こし」をやってみるとよくわかりますが、人が話すことって、そのままだと、とても文章というレベルにはなりません。
まあ、しかし現代の口語文は、話し言葉にとっても近い。ほとんど一緒といっていいでしょう。だから、ぼくたちは意識せずに口語体を使って書いているわけですね。
ただ、普段読んでいる文章の中にも、かなりの割合で「文語的表現」が含まれています。いやもう、小説なんて文語(前時代的な表現ではなく、書き言葉の意味)が入ってないと成立しないと思うのですが、その話はまたどこかで。
まずは両文体の特徴をつかむ
さて、その口語体で書く文章は「である調」と「ですます調」に分けることができます。常体と敬体という言い方をすることもあります。この表現だと「である調」が常、つまりデフォルトで、「ですます調」がその丁寧なバージョンというような感じを受けますね。
ただ、実際はこの文章もそうですが、世の中に出回っている文章の大半が「ですます調」になっている感があります。それはなぜか、ということも含めて、両者の特徴を考えてみましょう。
まず「である調」ですが、やはりフォーマルな感じがしますよね。たとえば契約書は「である調」じゃないと、なんだか落ち着かない。新聞もこっちだし(あ、確か『赤旗』は「ですます調」だったな。あれはナロードニキ的な話か)、ビジネス誌もほとんどは「である調」です。
あと、
我輩は猫である。
これ、もう、絶対に「である調」じゃないと困ります。「我輩は猫です」じゃあ、どうにも締まらない。
一方の「ですます調」は、やわらかい印象ですよね。直接、語りかけられているような感じがして、書き手としては読者との距離を縮めることができる点がメリットと言えるでしょう。現在、多くの文章が「ですます調」になっているのは、この「対話している感じ」を演出したいからなんでしょうね。
ぼく個人の話をすれば、選択できる場合は「である調」で書くことが増えています。理由は書き手の存在感を薄めたいから。読者には描き出す対象だけに集中して欲しいので、あえて語りかけないように注意して書きます。
ああ、この文章は、あなたとの対話ですから(読者はそれを横から読んでいる、というスタイル)、もちろん「ですます調」で書くことになりますよね。
当たり前のことですが、「である調」「ですます調」、どちらが優れているといったことではありません。それぞれの特徴をよく知った上で、今から書く文章にはどちらが適しているかを選択することが大切です。
混ぜるな危険
さて、お待たせしました。ここからが質問に対する回答です。「である調」と「ですます調」は混ぜていいのかどうか。これ、「No」でもあり、「Yes」でもあるんですよね。すみません、ずばり言えなくて。
まずは「No」の理由からなんですが、基本的に一つの文章の中で文体が混在するのは好ましくありません。
(例1)
成功の要因は大きく三つある。一つは新規性です。これまでこのようなサービスは世界中を見渡しても存在しませんでした。二つ目は優秀な人材が集結した点だ。様々な分野で活躍しているトップクリエーターたちが、一つの目的のために手を結んだことは奇跡とさえ言えます。三つ目はユーモアである。事業に笑いの要素があることです……
わざと書いたので、気持ち悪いのは当然なんですが、こういうのを読まされると、「もう、どっちかに統一してくれよ」という気持ちになる。実際はこういう混ざり方ではなく、前半は「ですます調」だったのに、中盤から「である調」になって、また「ですます調」に戻るといったようなケースが多い。文体が意識的に選択されていない証ですし、稚拙な素人っぽい文章と判断されてしまうでしょう。
というわけで、文体は統一する。混ぜない。これが基本です。
混ぜるともっと美味しくなる!
さあ、その上で「Yes」の場合です。これはちょっと条件分けをして考えましょう。たとえば小説で地の文は「である調」で書かれていて、会話の台詞の部分が「ですます調」になっているのは、むしろ自然です。
また、もともと「ですます調」で書かれた文章で、箇条書きの部分が「である調」になったり、表の中の文章がそうだったりするのも問題なし。
問題となるのはここから。あえて、混在させる場合です。まず「ですます調」の文章に「である調」が入ってくることは、まったく不自然ではありません。実際、この文章は「ですます調」で書かれていますが、「である調」はたくさん使われています。時間があれば、読み返してみてください。
じゃあ、混ぜてみましょう。
(例2)
「豚骨ラーメン」と口にするとき、ぼくはどうしてもある疑問を頭に思い浮かべてしまいます。「味噌ラーメン」「塩ラーメン」「醤油ラーメン」が「調味料」を冠しているのに対して、「豚骨」だけは素材だから。カテゴリが違うじゃん! ぼくはそう訴えたくなるのです。たとえば豚骨を使っている醤油ラーメンだって、豚骨ラーメンだろう、と。
あるいは元ダレに醤油を使っている白濁スープの豚骨ラーメンは珍しくないわけです。こっちは醤油ラーメンって呼んでもいいじゃないか。そう言いたくなるのです。
いやあ、混ざっていますね。ま、混ぜましたからね。でも、違和感はほとんどないんじゃないか。むしろ語尾の連続によってリズムが単調になるのを避けている点では、技術が使われた文章だと言えます。
諸君の挑戦を待っている
一方で「である調」に「ですます調」を入れるのは、どうやったって不自然です。そこをあえて使うのは、違和感を武器に変えたいからなんですね。
(例3)
「豚骨ラーメン」と口にするとき、ぼくはどうしてもある疑問を頭に思い浮かべてしまう。「味噌ラーメン」「塩ラーメン」「醤油ラーメン」が「調味料」を冠しているのに対して、「豚骨」だけは素材だからだ。となれば、ほら、「カテゴリが違う!」と、ぼくはそう訴えたくもなるのですよ。たとえば豚骨を使っている醤油ラーメンも、豚骨ラーメンだろう、と。
あるいは元ダレに醤油を使っている白濁スープの豚骨ラーメンは多い。こっちは醤油ラーメンと呼んでもいいだろうと、そう言いたくなるのだ。
ぼくには1カ所しか入れられませんし、入れるためにリズム的に、ちょっとした工夫が必要でした。うまくいっているかどうか……それは、あなたの判断に任せます。
このあたりの塩梅は、たとえば丸谷才一が天才的に上手だし、赤瀬川原平や東海林さだおのユーモアエッセイも参考になると思います。伊丹十三も効果的に使いますよね。にくい。
というわけで、あなたがプロである以上は、徹底的に研究して、どんどん混ぜてみることです。とくに「である調」に「ですます調」は、使えるようになると楽しいですよ