「みんなそろったところでパシャリ」や
「肉汁が溢れ出したところをパクリ」や
「玄関を出たら雨がザー」
みたいに、擬音語で終わる文に何かしら背すじがムズムズゾワゾワする苦手な感覚があります。
プロのライターさん的には、このような表現は文法的にはどのような位置づけなのでしょうか?
そして、テクニック的にはどのような時に効果があるのでしょうか?
書
[書く力]
A.オノマトペを文末にする手法は、ぼくも苦手です。
答える人: 元木哲三
よくぞ言ってくださいました。ほんと、いやですよね。
「両手を広げてにっこり」
「外はさくさく、中はとろとろ」
「ようやく答えがみつかってスッキリ」
「下の子はお母さんにべたべた」
「お肌がプルプル」
ああ、いやだ。
なぜ、こんなにいやなのか。せっかくだからちゃんと考えてみましょう。
ご指摘の通り、「パシャリ」「パクリ」「ザー」といった表現は「擬声語・擬態語」です。合わせて「オノマトペ」とも言いますね。
オノマトペにもいろいろありまして……
金田一春彦著「擬音語・擬態語辞典」で、氏はオノマトペを細かく5つに分類しています。「擬声語」は動物や人の声を言葉にしたもの。「擬音語」は自然の音を模したもの。「擬態語」は動きや様子を表すもののうち無生物の状態を表現したもので、「擬容語」は生物の状態を表しています。最後の「擬情語」は人の心理状態や痛みなどを表すもの。
例を挙げるとわかりやすい。
「擬声語」:わんわん、にゃあにゃあ、わはは、ぺちゃくちゃ
「擬音語」:しとしと、ごろごろ、ざあざあ、びゅうびゅう
「擬態語」:さらさら、つるつる、ぴかぴか、どんより
「擬容語」:うろうろ、だらだら、きびきび、ぼうっと
「擬情語」:どきどき、しみじみ、きりきり、ずきずき
こんな感じです。ふたつ以上の意味分類にまたがる言葉もあって、たとえば「ごろごろ」は雷をイメージして「擬音語」に入れましたが、猫の唸り声だと「擬声語」になるし、雪だるまを転がすならば「擬態語」に、休みの日に自宅で過ごす様子ならば「擬容語」に。目にものもらいができたときは「擬情語」になることもあります。
おもしろいですね。他にもたくさんありますので、ぜひ探してみてください。みんなとゲームのように考えてみると、けっこう楽しいですよ。
連発する人は頭が悪い?
さて、このオノマトペですが、基本的に多用すると、文章が幼稚になってしまいます。
<例文1>
さらさらと流れる川の水面に、花びらがふわりと落ちて、すーっと流れていった。それをしみじみと見つめていると、じんわりと胸があたたかくなった。
まあ、さすがにこんなに連発する人はいないかもしれませんが、一文に2箇所、オノマトペを用いている文章ならば、よく見かけます。
連発すると幼稚に感じるのは、幼い子どもと話すときに、オノマトペを使うことが多いからじゃないか、とぼくは考えています。「じーじーが、よしよし、したの?」とかね。「ブーブー」「たんたん」とか、幼児語は同じ音を重ねたものが多いですしね。
実際、オノマトペが連発されている文章を読むと、「知性が低い」と感じてしまう。だからでしょう、ほとんどの文章読本には「使いすぎないように」と書かれています。
ぼく自身は「テクニックは多用しない」という自分自身の信条からも使用を抑制したほうがいい、と考えています。技はここぞというときに、限定的に(できれば一度だけ)使うからこそ高い効果が期待できます。
オノマトペに限らず、レトリックを多用するのは得策ではない、という立場です。スペシウム光線やライダーキックを喩えに出すのは、さすがに古いですかね。
オノマトペ多用の肯定派
ところが、こうした主流の考えに異を唱える作家がいます。井上ひさしです。以下は『吉里吉里人』の一節。
「この間における私どもの気持といったら、それはそれは不安で不安で、頭はがんがん痛み、冷や汗はたらたら流れっぱなし。そのほか心臓はどきどき、足の裏はずきずき、睡眠不足で瞼はぴくぴく、口のなかはからから、腹はぺこぺこ。おのおのがみなともどもに、おずおず、おどおど、おろおろ、がたがた、がちがち、がやがや、恐々兢々、くよくよ、けんけん、がくがく、こわごわ、ざわざわ、しおしお、しくしく、そわそわ、うろうろ、ちょろちょろ、びくびく、ぶつぶつ、といった有様で……」
これは小説中の登場人物が書いた文章という設定で、もちろん悪文として書かれているわけですが、それでも、井上氏がオノマトペの駆使を、自らの文体の重要なポイントとしていたことは間違いないでしょう。エッセイも含めて、彼の作品をオノマトペに注目しながら読み返すと、新しい発見があります。
また、オノマトペと言えば、やっぱり宮沢賢治でしょう。『銀河鉄道の夜』の
「それから彗星が、ギーギーフーギーギーフーて云つて來たねえ」
なんて、ああ、なんとも味わい深い。『注文の多い料理店』には
「風がどうと吹いてきて、 草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました」
なんていうように、連発どころじゃないわけですが、これがほんとに効果的なんだ。うん、気持いい。そう、オノマトペもやはり「使いよう」なんですね。
副詞的、いや形容動詞的?
話を戻しましょう。文末にオノマトペを使うとは、どういうことなのか。オノマトペは本来、副詞的に働きます。つまり後に動詞や形容詞を伴うことが多い。たとえば「外はさくさく、中はとろとろ」を省かず書くとしたら
<例文2>
外はさくさくと、中はとろとろとしている。
といったようになるでしょう。「さくさくと」と「とろとろと」は「している」にかかります。さらに「と」が省略されることも多く、
<例文3>
外はさくさく、中はとろとろしている。
といったような文章も、よく見受けます。いずれにせよ動詞にかかるので、副詞的用法。
一方で、後に動詞を想定できないものもあります。
<例文4>
さすがにもうへとへと。
この場合は省略されているとしたら「だ」で、つまり「さすがにもうへとへとだ」が完成形の文章だと考えることができそうです。となれば、形容動詞的(動詞的と言ってもいいかな)に使われていることになります。
ま、いずれにせよ、文末に使うことはできるわけで、そのオノマトペが副詞的か形容動詞的かによって、印象が変わることはなさそうです。個人的見解ですが。
文法的に考えるという意味では、このあたりがぼくの限界です。まあ、学者じゃなくてライターなんだから、「知ってても、知らなくてもいい」というのが文法に対するぼくの立場です。
というわけで散文には死ぬまで用いません
結局のところ、「オノマトペを文末に持ってくる書き方は好みではない」というのがぼくの本音です。そう、好悪の問題です。だからたぶん散文の中に「みんなそろったところでパシャリ」といった表現は、今後一切、使うことがないでしょう。
一方でこれが広告に関係する文章だったらどうでしょう。
「お肌ぷるぷる(つるつる、すべすべ)」
これは書くかもしれない。
「セーターの仕上がり、ふんわり」
うん、これも書くかもしれない。つまりキャッチコピーだと使う可能性があるということですね。
テクニックと言えるかどうかはわかりませんが、オノマトペを文末に持ってくると短くできるというメリットがあるのと、やはり「お肌がぷるぷるになります」「セーターがふんわりと仕上がります」と書くよりもインパクトは強まりますよね。そうした効果は期待できるのだと思います。
あるいは、もし、絵本の文や童謡の歌詞を書くことになったら、宮沢賢治を目指して書くかもしれない。いや、むしろ書いてみたいと思います。
オノマトペを連発するという、あまり好きではない表現を上手に、効果的に使って、作品を豊かにすることができるとしたら、それは物書きとして、とてもうれしい瞬間だろうなと、今この文章を書きながら想像してにやけています(注:「にやにやしています」と書かないのがぼくなのです。ましてや「想像してにやにや」などとは絶対に書けません!)。
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