おっと、究極の質問が来てしまいました。「それがわかれば、誰も苦労しないよ」と言って逃げ出したいというのが本音ですが、わかりました、考えましょう。
「いい文章とは?」という問いには、無限と言ってもいいくらいの回答を想定することができます。そう、結局のところ、「自分自身がいかに定義するか」なのです。そして文章を生業にしている以上、職業ライターは自分なりの「いい文章の定義」を持っておくべきだと、ぼくは考えます。
そんなわけで、これから書くことは、「ぼくの定義」だということを忘れないでください。やはり、あなたの定義は、あなた自身が考えるものだと思うからです。あえて言うまでもないことですが、「鵜呑みにしない」ことは、ライターにとって、とても重要な資質ですものね。
文章は読んでもらってなんぼ!
前置きが長くなりました。ぼくにとって、いい文章とは何か。真っ先に挙げたいのが
「わかりやすい」
ということ。ぼくはライターであって、小説家でもエッセイストでも、詩人でもありません。「意味はよくわかんないけど、なんとなくかっこいい」といった文章を求められることは、皆無と言っていいし、求められても書けません。
ライターが書くのは、読者にベネフィットを提供できる文章です。だとすれば、なによりも「伝わる」ことが重要。ぼくはほとんどの文章を「どうすればわかりやすく伝えることができるだろう」という点に集中して書いています。
音楽であれば、楽器を演奏すること自体が楽しい。絵画であれば、筆を動かすことそのものが喜びとなる。でも、文章はどうでしょう。パソコンのキーボードをコリコリと叩くことが、果たしておもしろいでしょうか。
文章は読者に読まれる時に、初めて「書かれたことになる」と、ぼくは考えています。書くという行為自体は、苦ではないけれど、ことさら楽しい作業ではない。でも、「この文章がきっと誰かに読まれるんだ」という、実際にこの目で見ることはない、ちょっと先の未来を原動力として書いている。だからやっぱり「わかりやすい」ことは、とても大切なんです。読まれてなんぼ、ですからね、文章は。
わかりやすさを実現するために
具体的に心がけていることは、
- 特別な意図がない場合は、極力、難しい言葉は使わない
- 主述関係や、かかる言葉と受ける言葉の関係がわかりにくい、入れ子構造のような文体は避ける
- 論理に誤謬(ごびゅう)がないか、書く前にしっかり検証する
- 書く順序(プロット)は親切な設計になっているかを確認する
- しっかりと言い切る。曖昧な表現で結論をにごさない
などです。この他にもいっぱいあって、あらためて考えると、文章を書く時に気をつけていることのほとんどが、「そのことでわかりやすくなるか」、あるいは「そのことでわかりにくくならないか」だとも言えます。
ちなみに「誤謬」という難しい言葉を用いたのには、当然ながら、意図があります。論理学の用語なので、興味がある人は検索してくれるかもしれないと思ったからです。「早まった一般化」とか「テキサスの狙撃兵の誤謬」といった情報に触れてもらえたらな、という希望を込めたのです。
もひとつ「ちなみに」ですが、カッコ内に読み仮名を書いたのは、「ごびょう」と誤読されることが多いことを知っていたからです。このように、ぼくたちライターは、「なぜそのように書いたのか」について、必ず答えを持っておくべきだと考えています。
自分の視座、視点を入れる
次に意識しているのが
「自分にしか書けない」
ということです。「個性的な文体」といった話ではありません。文体はむしろあまり強い癖が出ないように意識しているくらいです。
「自分にしか書けない」というのは、「誰にでも書けるようなものならば、ぼくが書く必要はない。だったら書かない」という選択をしているということです。
たとえば洋服について書くとして、それがジャケットなのかスカートなのかを示して、メーカーがどこで、価格がいくらかだけを書けばいい、といった記事ならば、そもそも仕事として受けません(いや、これ嘘でした。ギャラがすごく高かったら、たぶん受けます。ええ、よく正直者と言われます)。
ぼくの書くものは大半が記名記事ではありません。それでも、対象をぼく自身が切り取って、文章として再構築する作業が入らないものは、ぼくにとって執筆ではない。自分自身の視座、視点が入ることで、価値が高まる文章を書きたいと考えています。
こう書くと、なんだか難しい、高度なことのようですが、そうではありません。人よりちょっと詳しいからわかることとか、みんなが表を見ているから裏を見てみたとか、とにかく調べ抜いたとか、すごく詳しい人に取材したとか(実際はこのケースが多い)、そういうことです。そう、ライターとして当たり前のこと。
自分の視座、視点を入れるというのは、自意識を満たすためでは決してありません。そうしないと、読者にとって有益な文章にならないと考えているからです。
もちろん、電話帳ならば名前と電話番号が書かれていれば、読者(って言うのかな?)にとっては十分だし、世の中には客観情報だけを伝えることで、役に立っている媒体がたくさんあることは理解しています。ただ、それらは、ことぼく自身にとっては、文章という範疇には入らない、ということです。
というわけで、ぼくにとって、いい文章とは
「わかりやすくて、かつ、ぼくにしか書けない文章」
となります。おしまい。
リズムとビジュアル
いや、もうひとつだけ付け加えさせてください。それは
「読みやすい」
ということ。それって「わかりやすい」と同じじゃないの、という声が聞こえてきそうです。もちろん「わかやすさ」と「読みやすさ」は密接に関係していますが、ぼくは分けて考えています。
読みやすさの最大のポイントは、リズムです。文章は音です。黙読をしているときでも、脳の聴覚野の働きが高まる、という話を聞いたことがあります。ぼくはよく「文章の音楽的側面」と表現するのですが、文章は「聞いて心地よいかどうか」がとても重要だと思うのです。
おそらく文章のリズムに関しては、いつか書くことになるでしょうから、そのときにあらためて詳しく考えます。
次に「読みやすさ」に関わってくるのが、レイアウトや表記の選択といったビジュアル面です。たとえば雑誌の場合、1行が何文字なのかで、改行のタイミングに影響が出ます。あるいは、その文字を漢字にするのか、ひらがなにするのかでも、印象は大きく変わります。
「自分の文章が最終的に、どのような形で表現されるのか」「そのとき、最も読みやすい状態にするには、どう書くのが適切か」については、けっこう意識して書いています。
ここまで書いてきて、つまりは「読者」なんだな、と気づきます。読者にどれだけ思いを馳せているか。そこがぼくにとって「いい文章かどうか」の決め手になっているようです。
おや、今回、すごく真面目な回答になってしまって、なんだか自分がちゃんとした人みたいで、我ながらいささか戸惑っています。とりあえず、「ぼよよよよ〜ん」とか書いとこう。
ぼよよよよ〜ん。