最後の一文が「良い子の文章」だと、どうしていけないのか。答は簡単で、「おもしろくないから」ですよね。大人にはそう伝えてください。悪いけど、おもしろくない、と。
子どもたちの「良い子ぶり」の例はあなたが挙げてくれましたが、多くの大人も同じ過ちを犯します。たとえば「幼児虐待を絶対に許してはならない」「学校でのいじめがなくならないのは大人が作り出した現代社会の責任である」とかね。
薄い。ああ、薄い。薄っぺらい。
まあ、ある見方から言えばそうだろうし、真っ向から反論はしにくいんだけど、でも、どこにでも転がっていそうな言葉だし、その人が虐待やいじめに長年、あるいは深く関わってきたならばまだしも、そんな経験もなしに肉体化していないふわっとした軽い言葉で締められても、まったく共感できない。なにより、おもしろくない。
文章の中で「気づく」ことに気づかないバカ
ぼくはこういうありきたりで、かつ反論を受け付けないような言葉で終わる文章を「良い子の文章」と呼んで、文章を書く人に注意を促しています。
中でも、あなたが例に出した「いろんな考え方があるんだと学んだ」みたいなものを書かないように、「文章の中で成長するな」とも、よく言います。勝手に成長されても、それを報告されても、読者はまったくおもしろくないもの。
言っておきますけどね、本当に多くの人がSNSの文章の中で、とーっても「成長」されていますよ。すんごく「気づいて」いらっしゃいますよ。ああ、恥ずかしい。
描写を徹底的にほめる
「良い子の文章」はね、本当におもしろくない。でも、書きたくなるんだ。ぼくたちみんな、人に「良い子」に思われたいんですよね。悲しいかな、そういうふうに、幼い頃から刷り込まれたんです。
あなたが作文教室で出会う子どもたちも、そうした教育の犠牲者だと、もう、この際、はっきり言っちゃいます。大人の顔色を伺っているんです。ううう、悲しい。
じゃあ、どう指導するか。
繰り返すけど、大人には「おもしろくありません」でいいんです。「こんなこと書いても、読者は退屈するだけですよ」と、正直に伝えてあげましょう。そのアドバイスだけで、文章力をぐっと伸ばす方は少なくありません。
でもね、子どもたちに対しては、絶対に文章を否定しないでほしいんです(この「否定をしない」というのは、ぼくたちの子ども向け文章教室の鉄則です)。代わりに事実を描写している部分を徹底的にほめてください。
「形容詞」を書かせないこと
それから、ぼくたちが指導する際に大切なのは「形容詞」に気をつけること。「楽しかったです」「とてもきれいでした」「おいしかったです」といった形容詞で結ばれる文章を書いても、読者にはほとんど何も伝わりません。
おそろしいことに読者は「この人、楽しいと思ったんだな」「きれいだと思ったんだな」「おいしいと思ったんだな」と考える。これ、共感ゼロ。書き手と読者の間に、はっきりと線が引かれる瞬間です。
書き手は共感してほしいのに、自ら分断の状態を生み出してしまっているというアイロニー。それが締めくくりの文だったら、ああ、なんと悲しい別れでしょうか!
でもさ、子どもの頃の作文指導を思い出してみて。先生から「このとき、どんなことを感じましたか」と聞かれませんでしたか。そう、先生たちはなぜか形容詞を引き出そうとするんです。たぶん「自分の意見」を書かせようとしていたんだと思う。そんなもの意見でも何でもないのにね。
反面教師。ぼくたちは形容詞が出てきたら、「どう楽しかったの?」「どこをきれいだと感じたの?」「なんでおいしいと感じたの?」と聞かなきゃならない。そして、それを描写するように促さなきゃならない。
否定せず、共感し、ほめることで、形容詞が描写に変わっていくように促そう。これがあなたの質問に対する答です。
ところで、弟はなんで、そんなに速くスイカを食べたんだろうね。