とある青年からの質問です。この問いに答えるには「文章が上手い」とは、いったいどういうことを言うのか、考えるところから始めなければなりません。回答や、いかに。
書
[書く力]
A.「おいしい文章」を書いているかどうか、ではないでしょうか。
答える人: 元木哲三
文章を書くことで、30年近く生活しています。ということは、ぼくは文章が「おジョーズ」なのかもしれません。皮肉な書き方をしましたが、それはぼくが「文章の巧拙に、それほどの意味はない」と考えているからです。
文章ってね、別に巧くなくてもいいんです。そりゃ、上手なほうが有利だし、ぼくも職業ライターとして、日々、技術の向上に努めています。でもね、それは本質じゃない。長くやってきて思うけど、10歳のときの直感は間違ってなかったと確信しています。
直感というのは、パンクミュージックに対するそれで、たとえばシド・ヴィシャスは、だってシド・ヴィシャスであることが価値であり、技術の高低なんか一瞬で吹っ飛ばすわけで。楽器は上手に越したことはないけれど、結局のところ、伝わるか、人の心を動かすか、ですものね。それは文章も同じだと思うのです。
文章読本の軽薄な嘘
今の世の中、とにかく「文章が上手くなりますよ」という書籍やサイトや動画があふれかえっています。それが悪いと言っているわけではありません。ぼくが物書きとしてスタートした頃は、文章読本と言っても小説家のそれがほとんどで、文学作品としては楽しめたけれども実際の仕事にはそれほど適用できず、だから使えそうな作文技法の本があれば擦り切れるまで読みました。そんなロートルにとって30年後に生きる若きライターの現状は、むしろうらやましくもあるのです。
一方で「なんだかずいぶんと議論が薄っぺらくなったな」とも思っています。「文章は短いほうがいい」「主語と述語を正しくつなぐ」なんて、いや、ほんと、これ、よくぞ堂々と書けたね、と言いたくもなる。「まさか、それが正しいと?」「しかも、技術と言ってる?」なんてベストセラーに文句をつけるのは、なんとかの遠吠えなのかもしれないけれど……。
大和言葉に尋ねてみれば……
じゃあ、ここでひとつ、「文章が上手い」という文章が、いったい何を言っているのか、考えてみることにしましょう。大和言葉は、「音が同じであれば、同じイメージを共有している」と考えてよいそうです(こういうふうに伝聞で書くときは、嘘をついている可能性が高いから気をつけてね)。
その説にのっかれば、うまいとは「上手い」「巧い」「美味い(味い)」「旨い」「甘い」といった表記がなされますから、ここからは個人的な見解ですが、そもそも「うまい」とは、味覚を満足させる快い味わいのことを言ったものではないか、と思います。
その中の「感覚が快い」というイメージが「巧い」「上手い」に転じていく。ほら、たとえば熟練した職人の手の動き、体の捌きなんてのを見ていると、本当に快いもので、おもわず、「おいしい!」という意味の言葉を発したくなった気持ちは、とてもよく理解できます。「うまいね。あんた、ほんと、うまい!」ってね。
おいしい文章は巧くなくても書ける
そういう原点にいったん帰ってから、再び質問に意識を戻して、「文章が上手い」を、「文章が旨い」「文章が美味い」と書き換えてみる。そして、「この文章、おいしいよね」と思える文章が「うまい」と再定義してみる。
さあ、そうなると、お立ち合い。日本料理でいえば、鮨や天ぷら、懐石料理といった高い技術が必要な料理は確かに旨い。でも、ラーメンだって、お茶漬けだって旨いよって話になるし、あっちでは、「いやあ、かーちゃんの玉子焼きが一番だ」って主張する人が出てきて、議論百出、談論風発、てんやわんやの大騒ぎ。
これがね、「文章が上手い」ということの、ぼくにできる最大限の説明なのです。つまり、「おいしい」文章にはあらゆるバージョンがあって、だから誰にでも書ける可能性がある。そこに巧拙が無関係とは言わないけれど、上手でなくたって、おいしい文章は山ほどある。
たとえば、一度、山下清の文章を読んでみてほしい。どこまでも拙いけれど、きっとあなたの胸を打ちます。極寒の山小屋で供される、腹の底から人をあたためる味噌汁みたいな。贅沢とは程遠いけど、思わず「ああ」って声が漏れるような、そんな味わい。うん、間違いなく、おいしい文章なのです。
やっぱり愛なんだ
そんなわけで、自虐的に語るのならば、ぼくは「おジョーズ」な文章をコンスタントに書くことはできるが、「うん、おいしいよ」と言ってもらえるようなものが書けているかについては自信がない。それでも、「きっと誰かが舌鼓を打ってくれるはずだ」と信じて書いている。毎日、毎日、こうして書いては悩みを繰りかえしているのです。
最後に、何が文章の「おいしさ」に繋がるのかについての私見。
二つあると思う。ひとつは描く対象への愛。もうひとつは読者への愛。前者を「食材や料理、あるいは料理文化への愛」、後者を「料理を食してくれる人への愛」のメタファーだと言えば、なにかしら伝わるでしょうか。
と書いているぼく自身が、文章のおいしさについて、よくわかっていないのだけれど、それでももし、あなたが何かを理解してしまったのだとしたら、ぼくはきっと「文章が上手い人」なのでしょうね、たぶん。
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